2011年03月03日

堀辰雄文学記念館

堀辰雄文学記念館
 
 堀辰雄文学記念館について語る前に、まず最初に告白しておくことがあります。私は、堀辰雄の本を、あまりよく読んでないのです。どうも軽井沢を舞台に、病気気味の少女が登場する恋愛小説を書く人らしい・・・・という事くらいしか、よく分かってないのです。

 そういう人間が、堀辰雄文学記念館を紹介するわけですから、ずいぶん、いいかげんな話ですが、いずれ、堀辰雄の本をじっくりと読んで、堀辰雄の研究を行った上で、あらためて、堀辰雄文学記念館の再取材を致しますので、今回の処は、さわりの解説だけで勘弁してやってください。

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 さて、これが堀辰雄文学記念館ですが、実は、私も堀辰雄の本を一冊だけ読んでいるのですね。中学に入ったばかりの頃に何故か「風立ちぬ」という本を読んだんですね、というのも、当時、人気絶頂だった山口百恵・三浦友和で映画化されていたからなんです。

 けれど、映画も、堀辰雄の原作の方にも、とても感動したものです。しかし、それっきりで、堀辰雄のことなんか30年間忘れてしまいました。そして、30年後、北軽井沢で宿をはじめてみて、軽井沢に堀辰雄文学記念館があることを知り、「堀辰雄ってどんなやつだろう?」と訪れてみたら、30年前に見た映画の原作者ではないですか!

 いや〜、まいった、まいった。
 こういう事もあるんですね。
 ちなみに『風立ちぬ』ですが、
 当時、思春期だったこともあって、
 妙に感動したものですが、
 その訳が堀辰雄文学記念館に来てみてわかりました。
 それについて、ちょいと解説致します。

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 堀辰雄は、明治37年東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家ですが、東大卒のエリートさんだったんですね。けれど、一高入学後肺を患って、軽井沢で療養しました。その途中に関東大震災で母を失うという悲劇も体験しています。それから堀辰雄は、何度も軽井沢に療養に訪れるのですが、この時代で結核にかかるということは死を意味していました。そんな堀辰雄が、軽井沢の療養所で恋人と出会い、また恋人に死なれるのです。堀辰雄の代表作である『風立ちぬ』は、この軽井沢での経験というか、実体験をもとに書かれたものだそうで、軽井沢の療養所で婚
 約者を失った経験をもとに書かれているようです。どうりで、子供心にリアルな小説だと思いました。

 そういう訳で、堀辰雄は、毎年のように軽井沢に訪れるようになり、軽井沢を舞台とした数々の作品を残しました。それらの作品群には、どの作品の中からも「婚約者を失った経験」がプンプンとにおっているのではないでしょうか?

軽井沢町大字追分662
0267−45−2050

詳しくは、軽井沢ホステリングインフォメーションのHP
posted by 風 at 03:22| Comment(13) | 堀辰雄文学記念館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

市村記念館

市村記念館

 市村記念館は、近衛文麿公、市村今朝蔵が別荘として利用したものですが、平成9年、長倉の雨宮御殿の中に移築され、市村家より町に寄付されました。

 ここで重要なキーワードがでてきます。

 近衛文麿
 市村今朝蔵
 雨宮御殿


です。何のことか分からないという方に、この3つを説明します。まず、近衛文麿とは、有名な総理大臣の名前です。つまり、市村記念館は、近衛文麿総理大臣の別荘なんですね。それがどうして『市村記念館』なのかと言いますと、市村今朝蔵という人が、近衛文麿総理大臣から買って、ながいこと使っていた建物を町に寄付したから『市村記念館』なんです。市村さんの寄付だから、市村記念館なんですよ。

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posted by 風 at 03:20| Comment(0) | 市村記念館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旧三笠ホテル

旧三笠ホテル

 旧三笠ホテルは、日本郵船や明治製菓の重役を務めた実業家の山本直良(1870〜1945)が創業しました。この山本直良という人は、有名な音楽家・山本直純の祖父に当たる人です。あの懐かしい森永製菓のTVコマーシャル『大きいことはいいことだ』や映画『男はつらいよ』の主題歌の作曲者としても有名であり、テレビ『オーケストラがやってきた』などでも活躍した山本直純さんののおじいちゃんなんですね。

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(2002年06月21日、指揮者山本直純氏が亡くなられました。業界では「彼が本気で音楽をやったら凄い指揮者になっただろう」といわれつつも、音楽の普及の方面で活躍した人で、テレビや映画音楽やコマーシャルソングや合唱など数々の名曲を残しています。興味有る方は、『森のうた―山本直純との芸大青春記−講談社文庫−岩城宏之著』をどうぞ。今では考えられないような信じられない実話に圧倒されます。孫も、おじいちんに負けず劣らずの大物です)

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 明治37年、三笠山のふもとに土地25万坪を購入しする山本直良は、はじめは牧場を営むことを考えていましたが、土壌に問題があり断念しました。そこで定宿の万平ホテルの主人に知恵を借り、三笠ホテルを造ることを決意し、設計を欧米に学んだ岡田時太郎に、監督を、商売敵であるはずの万平ホテルの佐藤万平に頼みました。

 佐藤万平は、商売敵になるホテル建築の監督を引き受け、万平ホテルを建てた軽井沢一の棟梁小林代造を紹介します。明治37年(1904)にホテルの工事を始め、翌38年に竣工したもので、すべて日本人によってつくられています。つまり日本が日本人設計者と日本人の技によって作り上げた明治日本の建築技術の粋を集めた西洋建築様式の建物でした。

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 ホテルの営業は明治39年(1906)5月に開始されました。電灯によるシャンデリア照明、英国製タイルを張った水洗便所、英国製のカーペットの採用など、当時の最先端・最高級の設備が整えられていました。驚くべき事は、客室30に対し定員は40人というところです。この割合には、驚嘆するしかないですが、見学に行けば、もっと驚くこと間違いないです。あの規模で定員40人というのは、現在、日本中のどこを探しても見つからないでしょう。第一、今の三笠ホテルは、当時の半分しか残ってないのです。

 そのうえプールもありました。明治39年のホテルにプールとは、本当に驚きますが、それよりも水洗トイレが完備していたことや、電灯によるシャンデリア照明を備えていたことにも驚かされます。

 また、軽井沢駅までの約2キロの道のりを黒塗りの馬車で送迎するなどのサービスもあり、その豪華さゆえ、渋沢栄一や団琢磨(旧三井財閥総帥)、住友吉左衛門(旧住友財閥総帥)、乃木希典将軍、近衛文麿、有島武郎、里見淳、清朝最後の皇帝溥儀といった名だたる顔ぶれが宿泊する、華やかな社交の舞台でした。人々は、この三笠ホテルを

『軽井沢の鹿鳴館』

と呼びました。それにしても、これだけ豪華だと三笠ホテルは、万平ホテルとは競合しなかったかもしれません。

 ちなみに創設者の山本直良の奥さんは、作家有島武郎の妹でした。そういううこともあって、三笠ホテルは白樺派のサロンとしても利用されました。また英国から取り寄せたすべての洋食器には、弟の画家有島生馬が絵付けを行いました。

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 また山本直良は、ホテル業以外にも有島家と親交のあった当代の陶芸家宮川香山らを京都から招いて三笠焼を開窯。また、あけび細工や軽井沢彫りなど地元の工芸品を奨励販売しました。外国人宿泊者にも珍重され、これらの工芸品は、現在、軽井沢の貴重な郷土の宝となっています。ました。しかし、経営は赤字続きでホテルは大正14年に手放され、昭和45年にはホテルとしての営業に幕を下ろしました。なお、窯のために直良が植林した赤松が今も三笠一帯に残っています。
posted by 風 at 03:19| Comment(0) | 三笠ホテル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

軽井沢ボヘミアンガラス美術館

軽井沢ボヘミアンガラス美術館

 ボヘミアンガラス(Bohemian glass)は、チェコで製造されるガラス製品です。チェコにおける伝統産業のひとつ。カリーガラスの一種。チェコにおけるガラス産業は、九世紀頃にモラヴィア(チェコ北東部)・ボヘミア(チェコ西部)・シレジア(チェコ北東部)のモラヴィア帝国で装身具の材料としてガラスが使われたのが始まりとされます。その後、そのガラス製造技術はモラヴィア帝国滅亡後に築かれたボヘミア王国へと受け継がれていき、この頃、ボヘミアガラスはステンドグラスやガラス器などにも使用されるようになりました。

 一七世紀、プラハの宝石カッティング職人キャスパー・レーマン(Caspar Lehmann)が、銅やブロンズ製の回転砥石で宝石をカットする技術をガラスに適用することを思いつき、それ以降、バロック様式の装飾的なガラス細工が世に知られるようになりました。ソーダ灰の代わりに木灰が使われます。

 ボヘミアのヨアヒムスタール鉱山で採れるピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)に含まれるウランがボヘミアグラスの着色に使われていることを知ったキュリー夫妻は大量のピッチブレンドを分析して新元素ラジウムとポロニウムを1898年に発見しました。



 高度な技術と華麗な装飾性が特徴のボヘミアンガラスを中心に紹介。ガラスギャラリーでは、チェコのアーティストの作品やアール・ヌーヴォーの華やかな虹彩ガラスなど約100点を展示している。19世紀末に注目を集めていたレッツ工房のコーナーには、1900年のパリ万国博でグランプリ受賞したホフシュテッターの作品もある。


午前10時〜午後7時
夏期は、開館時間を延長致します。
冬期休館有り(お問い合わせ下さい)

入館料
一般800円・中高生500円
小学生以下無料。
20名以上は団体割引あり。

交通
上信越自動車道碓氷軽井沢I・Cより約15分
長野新幹線軽井沢駅より徒歩10分


〒389-01
長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢1310-20
TEL.0267-42-0880 
FAX.0267-42-0881



ボヘミアンガラスの歴史

 九世紀頃、スラブ系民族によって築かれたモラビィア帝国。 今日、世界中でその高い技術力と美しさで人々を魅了する工芸品である「ボヘミアガラス」の歴史は、そのモラビィア帝国のガラスビーズや指輪の遺物から始まる。この帝国はハンガリー人の侵入によりわずか一〇〇年で滅亡するが、彼らの文化は以降のボヘミア帝国へと受け継がれた。

 十三世紀に入るとヨーロッパ中央部で発展をとげたボヘミア帝国では、そのガラス技術にも更に向上し、大聖堂などのステンドグラスも作られるようになる。

 十四世紀後半には荘厳華麗な建築物とそれを彩るステンドグラスが最盛期を向かえ、多くの作品が作られたが、度重なる戦争で、そのほとんどが失われてしまった。 そしてほぼ同時期、ガラスの器も発展し、吹きガラスによる様々な器が作られるようになった。

 十六世紀にはイタリア・ルネッサンスの波を受けたヴェネチアの製法が職人の手によってボヘミアにもたらされる。 ハプスブルク家によって統治されたボヘミアでは、貴族からの要望により、多くのヴェネチア様式のガラス器が作られる。

 十六世紀末、熱心な美術愛好家であるルドルフ二世はヨーロッパ各地より、画家、彫刻家、建築家、などを招く。 そして特に彼が宝石類を愛好したこともあり、プラハは宝石彫刻の中心地となる。そのことにより、ガラスのエングレーヴィング(特殊な工具でガラスに彫刻を施す作業)に適した、水晶のように純粋で硬い透明ガラスが生まれたのだ。このガラス技術は三十年戦争の間も絶えることがなく、主要な輸出品になった。

 十八世紀に入るとガラス製品の貿易はヨーロッパ全土はもちろん、遠くアメリカやアジアにも進出する。 ボヘミアガラスはさらなる発展と多種多様を極め、深紅色、濃青色などの色ガラスや金箔を用いて図柄を表現する器も生まれた。

 十九世紀には戦争などの影響によってボヘミアガラスの輸出は一時衰退するものの、ロマン主義隆盛の波にのり、再びヨーロッパ市場に広がる。エングレーヴィングの技術も飛躍的に向上し、模様だけでなく、モデルを用いた人物像なども掘り込まれ、芸術品として更に高い表現力を見せるようになった。

posted by 風 at 11:15| Comment(24) | ボヘミアンガラス美術館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

脇田美術館

脇田美術館
http://www.kitakaru.jp/kanko-haku/kyu-03.htm

現代洋画家を代表する脇田和が、長年の夢を形にし1991年にこの美術館を造りました。現在も意欲的に創作活動をつづける洋画家脇田和の、ドイツ遊学時代(1920年代)から近年の作品まで、油彩、素描、版画など、300点余を収蔵しています。

 脇田美術館は、脇田和の画業の全貌を伝える常設展示を中心に、企画展の開催や、画家にとどまらず彫刻家、建築家、デザイナーなど広い意味で日常的にドローイングを制作する人々に参加を求める国際公募展「軽井沢ドローイング・ビエンナーレ」の開催、音楽会、朗読会など、現代との接点をもとめるプログラムを展開しています。

 オリジナルグッズを扱うミュージアムショップ、ティルームを併設し、建築家吉村順三氏の手による隣接のアトリエは、近代日本の木造建築を代表する建物として知られる。


〒389-0100 長野県軽井沢町旧道1570-4
0267-42-2639
JR軽井沢駅より旧道方面、徒歩10分
ラベル:脇田美術館
posted by 風 at 14:36| 脇田美術館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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